地震や津波が少ない地域であるインドネシアでは、津波への対処が迅速にできなかったために被害は拡大してしまいました。
現在、ネットワーク研究室ではインド洋大津波の凄惨さと教訓を伝えていくためのデジタルアーカイブを京都大学と共同で制作を進めています。制作メンバーは渡邉先生、M1の菊本、岸岡、荒木、B4の佐久間。
プロジェクトを進めるために、先月、制作メンバーで津波の被災地であるインドネシアのバンダアチェへ出張してきました。
そのときの出張について、ご報告させていただきます。
-8月26日
夜、成田国際空港出発。
日本からシンガポールを経由して、インドネシアのメダン(スマトラ島最大の都市)を経由、そこから目的地であるバンダ・アチェへ飛行機で向かいました。
出張当時は飛行機のアクセスが大変な目的地でしたが、クアラルンプールからバンダアチェへの直行便がもうすぐ開通するらしいので、次回からはもっと行きやすい場所になるそうです。
-8月27日
AM11:00ころにバンダアチェに到着。京都大学の西先生と山本先生と合流し、ホテルで少し休憩をした後、カンファレンスに参加するため現地の大学へ向かいました。
カンファレンスはバンダアチェの津波に関するもので、現地で研究をしているインドネシアの大学教授のプレゼンテーションが行われ、日本からは西先生、山本先生の津波研究に関するプレゼンテーションを、デジタルアーカイブについて渡邉先生がプレゼンテーションを行いました。
ヒロシマアーカイブの説明をする渡邉准教授 |
その後、バンダアチェの学生とネットワーク研究室のメンバーによるワークショップが開催され、私たちは制作物(START ON! AIR)をプレゼンテーションし、質疑応答を通して現地の学生とディスカッションを交わしました。
同様に、バンダアチェの学生のプレゼンテーションもあり、お互いに良い刺激を与え合うことができたように思います(ディスカッションが白熱しすぎたため時間が押してしまい、当初予定していた他の学生のプレゼンテーションを聞くことが出来ず少し残念、、、)
ちなみに、聞くことが出来たバンダアチェの学生の研究は、津波の教訓をカートゥーンを通して広く伝えていこうというモノで、有意義で面白い作品でした。
START ON! AIRの説明をする荒木 |
ワークショップ後、学生たちと片言の英語で交流し、仲良くなることが出来ました。
インドネシアの人は写真が好きらしく「一緒に撮ろう!」というノリで盛り上がったり。
社会人になった後に大学に入る人が多いらしく、年齢が一回り上の人たちが多かったです。
インドネシアでアイドル化した菊本 |
その後、ホテルで夕食をとり、一日目が終わりました。
-8月28日
翌日、インドネシアの政府関係者たちへのプレゼンテーションするため、イベント会場へと向かいました。
プレゼンテーションの多くはインドネシア語で行われたため、あまり内容を理解することができませんでしたが、2004年にバンダアチェを襲った津波をこれからどう残し、どう伝えていくかというプレゼンテーションをしていたように思います。
前日同様に西先生、山本先生は津波研究に関するプレゼンテーションを行い、渡邉先生はデジタルアーカイブについてヒロシマアーカイブや東日本アーカイブ、そしてバンダアチェアーカイブのモックなどを見せながらのプレゼンテーションを行いました。
プレゼンテーションをする渡邉准教授 |
イベント終了後、現地の人と会場の近くを少し歩きながらバンダアチェアーカイブのARアプリを実演しました。いつも見慣れている光景にちょっとした情報が足されることで町の見方が変わるという体験に驚いており、アプリは好評のようでした。
その後、また少しだけ学生と交流したり。
バンダアチェの学生と談笑する岸岡 |
午後は、前日もイベントに参加していた学生の一人が車でバンダアチェの各地を案内してくれることになりました。
バンダアチェでは津波の被害を観光地として後世に残している場所が多数あります。
まずはその一つであるバンダアチェ津波博物館へ向かいました。
バンダアチェ津波博物館の外観 |
津波博物館に入るとまず、両側の壁を水が流れている暗く細い道を通ります。津波の恐怖を象徴した道なのだそうです。
細い道を抜けると、モニターが大量にある広い部屋があり、震災当時の映像や写真を見ることが出来ます。
その先には厳粛な雰囲気の小部屋が続きます。淡い光で照らされている壁には犠牲者の名前がいくつも刻まれ、その文字たちは天井のほうまでずっと続いて、まるで人々が天に昇っていくかのように追悼されているのが印象的でした。
犠牲者の名前が刻まれた小部屋 |
その部屋をでると、津波から逃げまとう人々の不安を表現した、先の見えない不安感をあおる螺旋階段が続いていきます。延々と同じ風景が続く階段で、自分がどのくらい歩いているのかもわからなくなるほどを登っていくと、急にパーッとひらけた空間が現れます。
そこは天井にはたくさんの国の言語で書かれた「平和」という言葉が飾られている空間で、いろんな国の助けを借りるコトで「平和」を取り戻すことが出来たということを表しているそうです。
各国の言葉で書かれた「平和」という文字 |
前半で、こうしたコンセプチュアルな体験をした後、震災の資料や写真が置かれたブースへと到着します。印象的だったのは、津波の被害に襲われる町や人々のミニチュア模型が多く、その一つ一つが精巧で、緊迫感が伝わってくるようなものだったことです。
五感に訴えかけるような体験を通して歴史を残している点が、言語による説明的な情報とは全然違かったのが新鮮で、日本の博物館では体験できないような形で震災の記憶を体感することが出来ました。
津波の被害をうけるバンダアチェの模型 |
津波博物館を出た後もいくつかの震災の記憶を残した観光地を巡ってバンダアチェの津波被害について学び、現地の子どもと交流をしたりしながら午後を過ごして、夕方、お世話になった学生とコーヒーを飲んで別れました(インドネシア人はめっちゃコーヒー好き)
バンダアチェのこどもたちとの記念写真 |
夜は、西先生と山本先生と合流し、夕食を食べながらバンダアチェアーカイブに関する打ち合わせをしました。
主に、学生である私たちがアーカイブに関するアイデアをプレゼンテーションし、それを元にディスカッションしていくという形式で打ち合わせは進んでいき、
「何のためにアーカイブをつくるのか」
「だからどういう風に表現しなければいけないのか」
「そのためには何をしていく必要があるのか」
そういったことを明確にすることができた打ち合わせでした。
バンダアチェアーカイブの構想を話す佐久間 |
-8月29日
この日は、渡邉先生は単独でインドネシア政府の方にアーカイブの使用方法を説明にしに行くということだったので、学生たちだけでバンダアチェを巡って、もっとバンダアチェのコトを知ろう、ということになりました。ということで、午前中にタクシーを手配して三日目がスタート。
インドネシアでは英語を話せる人は少なく、運転手とのコミュニケーションのほとんども身振り手振りで伝え合うしかない状況だったのですが、運転手オススメのビーチやレストランなどを巡るうちに打ち解けて、夕方には運転手のお家へ招待されるほど仲良くなっていました。
コーヒーをごちそうになり、運転手の奥さんや息子さんとおしゃべりをして夕方のひとときを過ごしました。
娘の写真をうれしそうに見せてくる運転手と奥さん |
夜に渡邉先生と合流し、夕飯を一緒に食べて三日目が終わりました。
-8月30日
帰国するため朝早くに出発し、メダン行きの飛行機に乗りました。
しかし、メダンでの待ち時間が8時間もあったりと、飛行機の乗り継ぎが悪く、丸一日かけてのんびりかけて帰国したので、日本に到着したのは翌日の朝。成田国際空港で解散して、今回の出張が終了しました。
メダンの街を歩く学生メンバー |
-最後にすこし
福島出身の自分としては「震災以降の世界をどう築いていくのか」という点で、他人事ではないように感じながらの旅でした。バンダアチェの復興しつつある姿は、震災から5年後、10年後に「こういう福島になっていてほしい」「こういう福島は嫌だ」そんなことを想像する良いキッカケであり、「そのために何をすべきだろうか?」ということを意識していこうと思います。
これから、バンダアチェアーカイブと卒業制作(福声)を粛々と作っていきます。