「サマーウォーズ」感想



こんな研究室を運営している割に「サマーウォーズ」にはそれ程興味が沸いてなかったのですが…予告編を偶然眼にして”こりゃ観なくては”という気分になったところに、教え子や首都大同僚の@doctaさんに「あなたが観ないでどうする」と背中を押され、そしてtwitterにてしらいさんにお誘いいただくなど勢いづき、お台場デート兼ねて観に行ってきました。


以下、感想を羅列的に。ネタばれもありそう。

序盤、仮想世界の描写にまず引き込まれる。アバター・仮想商店街などなど、いみじくも過去のSecond Lifeに関する報道で何度も使われた概念群が、とても魅力的に描かれている。おそらく各々の単語の意味は分からなくても、誰もがこのチャーミングな世界に”行ってみたい”気になるはず。サービスへのアクセス手段もPC・ケータイ・iPhone・NintendoDSと、きめ細かく網羅されていた。「仮想世界サービス一般」のプロモーションムービーとしても、とても良くできている。リンデンラボはじめサービス運営元は、このくらい楽しげな打ち出し方をしないと駄目なんじゃないか。

セキュリティ・共有知・プライバシー・ネットイベント・犯罪・炎上・人工知(無)能などなど、現在のインターネットにみられる諸事象が、ストーリー中で至極平易に紹介されていることに感心した。こういう物事を扱う場合、下手すればただの解説に終始してしまう。しかしこの映画ではすべてが無理なく美しく、終盤へ向かう盛り上がりに沿って”誰にでもわかる”ように表現されており、とても教育的。自分の学生たちにもぜひ見せたいと思った次第。勘のいい子なら、1年分の講義の骨子はこの映画で学ぶことができるかも。

さらに、登場人物たちが過ごす日常と、仮想世界における出来事の重なりあいかたが絶妙。主人公ら、仮想世界が日常にどっぷり浸み込んでいる人々。対照的に「それってゲームでしょ」と距離を保つ人々。そして、次々と起こる事態に翻弄される世界を俯瞰しつつ、電話や手紙、あるいは対面で事態の収拾をはかる祖母。彼女はさすが年の功というか、状況に応じた最適なコミュニケーション手段を迷わず執っている。世界をかたちづくっていくのは、情報に載せられた(人の)意思であり、情報そのもの、さらには情報伝達手段そのものではない、ということだろうか。

そういったポジティブなメッセージに呼応するように、科学技術、そして先輩の女生徒との恋や田舎の夏休みなど、懐かしき「ジュヴナイルSF」としての道具立てが揃っている。実際こちらの期待を裏切らず、好奇心からスタートした「効率」と「論理」が世界を席巻したようでいて、最後には人々の「意思」が事態を収拾する・・・といった具合に、いかにもジュヴナイル的にきれいにストーリーテリングされていた。かつてそういう類の小説を読んで育った世代(=僕ら)をターゲティングしているのかも知れない。といいつつも、隣席に座っていた女子中学生たちにも確実に通用していた。彼女らはアバターのデザインにいちいちウケつつ、キス(未遂)シーンではキャーキャー騒いでいたくらい。とても分かりやすいサンプル。

設定そのものは2009年時点で普遍的なものであり、あっというまに陳腐化するかもしれない。遠未来に向けてドライブを掛けてくれる映画ではなく、取りあえず今日明日くらいのレンジで一所懸命やりましょう、といった雰囲気。そういう意味で射程距離が長いわけではない。ストーリーもジュブナイルぽいと感じるくらいに正統派で古臭く、新味はない。しかし「2001年」がいまや永遠に到達できない未来となったように、この映画は、観た人々の心のなかに「いつまでもやってこない明日」として残っていく気がする。遠い未来に照準を合わせたとしても、いつか”その時”はやってきてしまう。日常がどんどん書き代わっていく今、射程を縮めて極々近未来の「今日明日」を濃密に描いたほうが、力強い作品をつくりだせるのかも知れない。

それにしても、映像系に限らず、何かを制作する仕事に携わっているひと・そういうひとになろうとしている学生たちはぜひ観るべきだろう。ガラガラのシネマメディアージュにして、スタッフロールが終わるまで誰も席を立てないくらいのいい映画だった。元気を貰えてよかった。(wtnv)