3年間の研究室生活を終えて

お久しぶりです。修士2年の高田健介です。

今春、Web系の企業に内定を頂き、渡邉研究室を卒業することになりました。なので、大学・大学院生活を振り返っての記事を書こうと思います。先生からのリクエストが「集大成で」ということだったので、長い上に多分に自分語りっぽい記事になりますが、ご容赦下さい(スタジオのブログでこれって大丈夫なのかちょっと不安ですが…)。

■渡邉研究室に来た理由

元々絵を描くこと、創作をすることが好きだったこともあり、進路として一番に考えていたのは「ゲーム制作者」でした。ちょうど大学の最寄り駅にゲーム開発会社があると知った自分は、学部3年の3月頃、その会社にポートフォリオを送り、アルバイトとして勤務を始めようとしていました。

しかし、会社から求められたのは平日の4日のフルタイム勤務。ツールの使い方も知らず、ほとんど見習いのような状態で入ったので当然だったのですが、これが研究室選びで大変な条件となりました。

それまで仮で所属していた研究室は、具体的な「モノ」を作る研究室。これに対して、ネットワーク研究室は「Webに結びついた何か」を作る研究室なので、毎日研究室にいなくてもゼミを取ることができるのではないか…。ということで先生に相談をし、渡邉研究室に入ることになりました。

文章にしてしまうと結構消極的な理由になりますね…。ただ、Webは中学・高校の頃から触れ、その独特な文化も好きで、サービスやサイト作りに自信があった、ということもあり、元々強い興味がある研究分野の一つでした。

研究室に入って以降の学部4年の間は、週4日ゲーム会社でデザイナーとして働き、残りの1日でゼミに出席、週末は課題をこなす、といった生活をしていました。

■卒業制作

学部4年の10月頃、アルバイトでゲームソフトを1本リリースし一段落したので、卒業制作にとりかかりました。ここで散々悩んだのがテーマ設定。一般的に卒業制作・論文に求められるのが、「社会的な意義のあるテーマを設けること」で、自己満足な表現が大好きだった自分は、この視点でものを考えることに不慣れでした。

散々迷ったのですが、まずは見識を広めるために、iPhoneを購入。当時のモバイル(スマートフォン)アプリの躍進は凄く(今もすごいですが)、色々なものを試し、興味を持てそうなものを探しました。

当時は「セカイカメラ」が出始めた頃で、位置情報・ARアプリ開発が活気づこうとしているところでした。それらをひと通り眺めてみて思ったことは「位置情報のコミュニティは、何か狭い」ということでした。

その時は、この感想をなかなか具体的な言葉に出来ませんでした。今考えるとおそらく、今いる場所の情報しか受け取れない「縛り」の設定がおかしいのではないか…ということだったのだと思います。

結果的に、その点を解決する方法として、「矢文」の概念を利用し「土地に向かって文(情報)を撃つ(投稿する)」インタラクションを用いた「E-YABUMi」を提案しました。ただ、アプリとしてのリリースは出来ず、不完全燃焼感を持ったまま、修士課程に進学することになります。

■修士過程へ進学、アースダイバー

修士課程進学当初はフォントづくりをするなど、テーマとは離れて適当に好きなことをやっていたのですが、夏あたりにかなり沢山のタスクを抱えることになります。

まずは「アースダイバーマップBis」。これは多摩美術大学・中沢新一研究室と共同制作で、「ブラタモリ」のような、東京の街歩きを楽しくするためのコンテンツとして制作したものです。

このプロジェクトでは、複数のタスクを抱える中でいかに自分のスケジュールを調整して制作を行うか、ということを学びました。と言っても当時は大したことをしていなかったので、自分の中で思うように制作が進まなかった部分もあり…、忙しい時期が終わってから思い返してみて、反省することによって学んだ、という感じでした。

それまでシングルタスク人間だった自分が、マルチタスク人間に少しだけなれたきっかけのプロジェクトだったと思います。(結果的に、多摩美術大学の方々がコンテンツとしての完成度を非常に高めて下さったので、とても良いプロジェクトとなりました。その節は色々とご迷惑をお掛けしましてすみませんでした。。。)

■ソーシャルゲームの制作

大学外の活動ですが、アルバイトでソーシャルゲームの制作も行いました。ソーシャルゲームは、近年盛んなモバイルアプリの中核とも言えます。一見ライトなアプリを作って効率良く収益を出しているように見えるのですが、実際に現場に入ってみて分かったのは、想像以上に大変なことが多いということでした。

個人的に一番挙げたい「大変なこと」は、「ユーザーのリクエストに応えつつもエンターテインメントとして面白くしないといけない」点でした。当時の体感的に、「リクエストに応える」と「面白くする」はかなり相反した概念で、適当な落とし所を見つけることに凄く苦労しました。その上、これを1週間や3日といった、かなりの短期間で実装しないといけないのです。これは凄く精神力の必要な仕事でした。

このソーシャルゲームのリリース後、大学の研究・制作などに集中し始めます。

■海外インターンシップ

修士1年の夏前、僕はインターンシップの事を考えていました。当初はアルバイト先であるゲーム会社にインターンシップとして行こうか、と考えていたのですが、それだと普段と変わらないので物足りなさを感じていました。

その時、先生がふと「海外に知り合いの勤めている会社があるけど、紹介しようか?」と声をかけてくださったのですが、当時僕は一度も海外に行った経験がなく、「旅行でも行ったことないのに、海外インターンなんて出来るわけがない」と思い込んでいました。

ただその後、無理かもしれないけど言うだけ言ってみるか、くらいの軽い気持ちで「お願いします」とお願いをしました。

これがなぜか上手いこと話が進み、アメリカ圏にある某社に行ける事になりました。

その会社は、ゲーム会社等からの出資を受けながら、「メタバース(例:Second Lifeなど。3Dになったインターネット空間、と言えば分かりやすいのかな)」を制作している会社で、日本人とアメリカ人が共同で働いていました。

現地で触れたプラットフォームは、それまでWebと言ったら、HTML5やWordPressといったごく狭い視野で物事を捉えていた自分にとって衝撃的なもので、かなりワクワクしました。(それまで、Second Lifeには触ったことがありましたが、いまいちピンとくる感じではありませんでした)

加えて、社員さんたちが働いている環境そのものが、僕にとって刺激的でした。こういう環境にデザイナーやプログラマーを置いたら、間違いなく沢山の人に支持されるものが作れるな、と直感的に思いました。

僕は現状、起業だとか独立だとかにそれほど興味がない状態ですが、将来的にもしそんな感じで食べていくことになったら、確実に色々真似をすると思います(笑)。

ここで体験した出来事は、多分一生忘れることはないと思います。それぐらい濃い時間を過ごすことができました。約2週間の滞在でしたが、この間に数年分の情報のインプットができたと思います。反省すべきは、滞在期間をもう少し長く設定すべきだったことくらいです。(当時お世話になった方々と、交通・滞在費を出してくれた大学に本当に感謝です。)

■東日本大震災、計画停電MAP

その夏でかなり完全燃焼してしまい、長いこと燃え尽きていたのですが、そんな気分を破ったのが2011年3月11日の東日本大震災でした。

あのただならぬ空気の中で2日間ほど、テレビの放送とtwitterに張り付き、その時の情報を追うだけに精神力を使って、それ以外何もできない状態が続いていました。

3月13日夜に計画停電が発表されると「これは、授業やアースダイバーでやった“マッピング”を使えばもっとわかりやすくなるのでは」と思いたち、その場にいた現修士1年の北原と一緒に「計画停電MAP」の制作を始めました。

これが幸運なことに沢山の方々からの協力を得られ、同種の地図をGoogleやYahoo!といった大手のWebポータルサイトよりも先に公開することが出来ました。

作っていた側から見ても突風のようにあらゆる事・時間が過ぎ去っていったプロジェクトでしたが、その時に下したいろいろな判断が間違っていなかったことを後で確認できたので、本当によかったと思います。

ただ、出来るならば、もっともっと困っている人たちにアプローチしたかった、というのは事実です。あの災害の規模を考えたら、PCで計画停電のエリアをチェック出来るだけ幸運な環境だったと思うので…。

この件に関しては修士論文でもまとめたので、後日詳細を文章にしたいと思います。

■就職活動

アルバイトで学んだことと、研究室で学んだこと、それぞれを共に今後に生かしたかったので、ゲーム会社とWeb関係の会社を軸に就職活動を進めました。

就職活動はかなり運の(ような)要素が強いと思うので、結果論でしか語れませんが、評価されやすかったポイントは、長期的な視野で物事を見ることができ、かつそのビジョンに対して自分なりにものが言えるかという所だったように思います。

「ツールが使える」「アルバイトをしていた」という局所的で実務的なところは、2次・3次面接に残るような人はほとんどの人が大なり小なり心得ていて、その評価はあくまで下地です。(比率は会社により違いますが…。)

実際に動いてみて、その体験をもとに自分のオリジナルで語れる部分があるか、そこに、自分の人格がうまい調子で出ているかどうか、という所が、面接官も聞いていて面白いのではないでしょうか。

結局、それなりに苦労はしたのですが、先に述べた視点での面接が自然にできた、Web関係の企業に内定を頂きました。

■ヒロシマ・アーカイブ

就職活動の前後で、ヒロシマ・アーカイブの制作も行なっていました。

アーカイブの制作は、とにかくミーティングの回数を重ね、アイコンの表現一つをとっても妥当性を議論して行なっていきました。

それまでは「制作」と言うと自分の手癖でモノを作り、表現を細部まで考えこまずに行なっていた部分があったのですが、このプロジェクトでは一つ一つの表現に細かく理由付けをし、議論を重ねることで、プロジェクト全体に対して洗練されたデザインが出来たと思います。

加えて、ヒロシマ・アーカイブの特徴は、実際に現地に足を運び取材をし、平和祈念資料館での発表を行うなど、Webだけでは終わらない「活動」としてプロジェクトを進行した所にあります。平和祈念資料館の発表の時に、被爆者の方から直接感想を頂く機会もありました。

Webばかりを見ていると、いつの間にかWebを中心として色々なものを見てしまうようになるのですが、それは全く逆で、実世界の問題を解決するための手段としてWebを使うべきだなと。このスタンスはおそらく恒久的だと思うので、新しいプロジェクトを立ち上げよう、となった時、ヒロシマ・アーカイブで行ったことを思い出して、自分の立ち位置をリセットしたいと思います。

受賞巡業(?)

最近僕が関わったプロジェクトは、ありがたいことにとても良い評価を受けています。授賞式や講演のお話が多くあり、先生に付いてここ半年ほど色々な場所に行き、色々な人と会っています。

その懇親会には、いつも色々な分野の面白い人、すごい人が集まっていて、どこかに行くたびに刺激をもらって帰ってきます。これがまた、次のプロジェクトや今後の自分のあり方について考える良い養分になっています。

僕はもう研究室を卒業してしまうので、刺激を受ける機会が減るのではと心配ですが、今後は自分からこういった場所に出向けるよう、企業に所属しながらも個人でもうまいこと活動していきたいと思います。今後の活動はwww.sou-sou.net(個人ページ)で報告していく予定です。

■これから研究室に入るひとへ

これは学部卒業生も書いているみたいなので一応。

僕の話で申し訳ないんですが、僕がここ3年間くらいで勉強したことは以下の2点です。「その年齢になって分かったことがそれ!?」って内容でもあると思うのですが…。

・学生は基本的に何やっても許される。大胆に行動・発言すること。
何やっても、とは多少言いすぎですが、これくらいの気持ちで行動して下さい。「学生」はかなり強力な免罪符です。ちょっと足りない思考でものを言っても、お偉いさんに会いに行っても、未熟な作品を出しても、無茶な注文をしても「まぁ学生だし」で大半の評価に下駄を履かせてくれます。これに甘えない手は無いです。

これを繰り返してレベルアップし、「これで学生なの!?」って言わせられると凄く良いんじゃないでしょうか。

・もう一度幼児並みの好奇心を取り戻して、ものを考えること。
上の行動をしても、話した時に「自分のやってることにしか興味がありません」だとどうも話が広がりません。自分の興味がある分野の周辺から、たくさんの事を広く知り、一般化した話ができると不思議とその次に繋がります。

理想は幼児の好奇心だと思います。あらゆることに「なんで?」と突き詰めて考えてみると、意外と自分の考えが浅い事に気づくと思います。実はこの問いかけは、論文を書くとき、就職活動でエントリーシートを書くときにも有効なので、習慣にしておくといいと思います。

■まとめ

今考えるとかなり軽い気持ちで選択してしまった研究室選びでしたが、結果的には大成功でした。ただ、今までの人生の中で一番大変な3年間でもありました。

余りにもすべきことが多いので、今まで余計なことを考えていた脳の領域や、余計なことをやっていた生活をデフラグの如く最適化する必要もありましたし、やれるかどうか分からないところをまず「やる」と言っておいて、あとから気合でなんとかする、みたいなこともありました。

ただ、これらは典型的B型の性格の僕が社会に向き合う上で必要不可欠な事でした。この3年間がなければ確実に「これだからゆとりは…」と言われる程精神的に子供だったでしょう(と思ってるとまた甘い部分を発見するのでしょうけれど…)。

まだまだ、やらなければならないことは多いですが、10年前の自分に自慢できるようなことはできていると思います。ご助力頂いた学校、研究室の友人と渡邉先生に本当に感謝です。ありがとうございました!

(高田 健介)