「こたつ問題」 on Stickam + Twitter

昨日こんなイベントが建築会館で催されたので、twitter上で参加しました。
「こたつ問題」については検索してください。アート&デザイン系の学生にとってはマイナスの意味でキャッチーな”動画だけ”埋め込むのは避けておきます。この騒ぎ、ウェブ上の情報で見る限り、ちょっと切ない終幕を迎えたようです。

他にやることはあったのに、時間を割いて参加したのは、僕の主戦場”ウェブ上での活動”という見地からみた、以下の「配信側の欠点」を指摘するためです。
  1. Podcastという「メディア」の扱い方に慣れていないこと。
  2. 「受け手側がどのように聴くか」についての想像力に欠けていること。
これらの欠点は、特にウェブに限らず、メディアを用いて情報発信する者にとっては致命的なものです。自分の学生たちには反面教師として参考にして欲しい。昨晩のログ・・・関係ない話題も含まれてますが・・・をみてもらうと、上記の点について言及しているのが分かります。以下、自分の発言を引用:
全体を均一に聴き流すことができるラジオと、全体 or 特定個所を何度でも再生可能なPodcastは別。あの放送内容だと個人攻撃な印象しか残らないと思う。
放送を聴くといかにもラジオ的な演出が加えられています。エレガントな内容のときは多分にノスタルジー含めて楽しめるのですが、今回のはいただけない。昨晩「ダベりをそのまま放送した」と発言されていたようですが、まさに品がない。その後の経過をみると、品のないコンテンツがウェブに巣食う「下品の神」「切なさの神」の好餌になることが良くわかる。さらにもう一点
リスナーや当事者(作者)がコミット/編集できない確定的なメディアでつくってるから「公的」臭くなるんだろうな。建築系ラジオ、次回から実況+twitterでやったらどうですか。
「反論すればいい」と書くのは簡単ですが、簡単には再編集・再配信できない音声ファイルを配信している時点で、反論をある程度封じることになってはいないか。メディアの持つ性質が裏目に出ている。また「「建築系ラジオ」は公的なものではなく私的なものだ」という発言もありましたが、それはおかしい
ウェブでの情報配信者に「私的」も「公的」もないんだ、ということに自覚的であるべきかと。RT @hajimebs: そうかも。配信場所も10+1ウェブじゃなくて、誰かの個人ブログにするとか。 RT @hwtnv: 「公的」臭くなる
「私的なメディアだ」と開き直ることこそ、ウェブ上で「不特定多数の人間に」品のないコンテンツを配信することに対して自覚的でなく、責任を放棄している証拠ではないか。ウェブメディアについて習熟できていないと言ってもいい。この点は事後に@tatsumatusdaくんがハッシュタグ抜きで折り返して(追記:わざとじゃなかったそうです)くれてますが。
@hajimebs @hwtnv まあ、ポッドキャストをiTuneで聴いていると個人ブログとは分からないわけですね。確かにそうです。
配信サイドが「こたつ問題」についての放送を通じて、議論の射程を遠くに設定した(かった)ことは何となく想像できますが、それにしては初動がちょっとお粗末だったんじゃないかと思います。今後に期待しています。それこそ「次回から実況+twitterでやったら」いいのではないでしょうか。うちの研究室まわりでもウェブ上の「私性」について議論や事件がときどき起きますが、とても良い参考事例になりそう。

さて、昨晩の会場でも何度か意見を拾ってもらっていたようです。あいにくStickamからの音声は非常に聴き取りづらく(これ、事前にテストしたんでしょうか)、耳が拾ったいくつかの単語を脳内で補完して文章を紡ぐような状況。新聞の見出しだけ観ながら文章を想像するようなもの。twitterログをみると@hajimebsさん@hanamotokoさんが何度も言及してくれていますが、実会場と決して話が噛み合っていたとは思えず、やり取りには隔靴掻痒な感がありました。

会場側がtwitter上の発言を軽く扱っていたとは思いません。ただ、実会場における会話の流れとtwitter上のタイムラインは、まさに「メディアとしての性質」が異なるため、ヒエラルキカルに片方が片方を「拾う」のには無理がありそう。実会場のディスカッション参加者はタイムラインを観ながらアドリブを効かせるスキルが必要。対して、twitter上の参加者は発言を聴きながらひたすら(時には”思いつき”を)さえずればいい。機動性にすぐれているのは後者。それを前者が「拾う」という構図は不自然かも知れない。

その後、GCAD運営委員でご一緒する大和田茂さんとチャットで話したのですが、今後このシステムを使ったイベントを開催するとしたらここに書いたように(以下引用)
実会場からtwitterのさえずりを拾おうとすると、話が絶望的に食い違う。ただひたすらスクリーンで流しておけばよいのかも。聴衆が話を聴かずにそっちばかり観る可能性もあるけれど、それは話者の力足らずってことで。
というセッティングにすると思います。話者も会場もほど良くtwitter上の発言を意識しながら過ごす。ずっと観ていると「無視しちゃいかん」という意識がはたらいてきて、誰かがかならず言及します。twitter側は好きなように過ごしていけばいい。

さまざまな意味でためになる夜でした。関係者の皆さまおつかれさまでした。(wtnv)