デジタルアーカイブズ、オープンデータ、そして記憶のコミュニティ(「αシノドス」掲載稿)

以下は「αシノドス」2013.03.15配信号に掲載された原稿を転載したものです。

■はじめに

筆者らは、時代の経過とともに散逸していく歴史資料をネットワークを通じて収集し、デジタル・アースの仮想空間に集積して公開する「多元的デジタルアーカイブズ」を構築してきた。これまでに、南太平洋の島国ツバル、長崎・広島原爆、東日本大震災、そして沖縄戦をテーマとしたアーカイブズ・シリーズを公開している。

これらのアーカイブズ・シリーズの目的は、公開されていなかった資料をオープンデータ化し、データ同士の時空間的な関連性を提示することによって、事象についての多面的な理解を促すことである。さらにアーカイブズ構築活動のバックボーンとして、オンライン・オフラインで人々を繋ぐ「記憶のコミュニティ」を形成することを企図している。

また、2012年秋に開催された「東日本大震災ビッグデータワークショップ」においては、アーカイブズ・シリーズで用いた手法を応用し、震災後に収集された大規模データをもとにした、災害状況の可視化に取り組んだ。これは、同時代の災害記録を未来に残していくための、あらたなアーカイブズ構築の試みでもある。

本稿では、筆者らのこれまでの活動について総括する。


■アーカイブズ・シリーズのスタート地点「ツバル」

アーカイブズ・シリーズ第一作「ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクト」は2008年、ツバルの支援活動を展開する写真家、遠藤秀一氏と筆者の出会いからスタートした。


当時、マスメディアでは「ツバル=地球温暖化による水没に瀕した国家」といった報道が数多くなされており、筆者もツバルに対してそうした観念を持っていた。「ツバル。水没で大変な国ですよね」という筆者の軽口に対して「まずはツバルの人々の顔をみて、素直なことばを聞いて欲しい。温暖化や海面上昇の話はそれからです」と遠藤氏は応えた。

筆者はこのことばを、ツバルが置かれた状況をひとごととして捉えるのではなく、現地の人々とともに地球に生きる当事者の立場で向き合うところから始めよう、というメッセージとして受け取った。その場で遠藤氏と意気投合し、筆者はその翌年の2009年、学生とともに実際にツバルを訪れることになった。

実際にツバルで眺めた風景、そして出会った人々の顔やことばは、それまで筆者が抱いてきた「海面上昇に脅かされる楽園」というイメージを覆すものだった。エメラルド色の海のそばに積み上げられた大量のゴミ。海で無邪気に遊ぶ子どもたちと、高機能GPSレシーバを携えて漁に向かう男たち。これらが渾然一体となって、ひとつの「世界」を成していた。

こうしたツバルの「実相」の一端に触れ、筆者は一クリエイターとして、さまざまな境を超えて、人とできごとをダイレクトに繋ぐツールをつくりたいと考えた。その一年後、ツバルに住む人々のポートレートとことば、現地で撮影されたGPS写真をデジタル・アースに集積したコンテンツをウェブ公開した。

筆者らは、この遠藤氏とのコラボレーションを起点として、その後さまざまなアーカイブズを制作していくことになる。遠く離れた南洋の孤島に住む人々の姿と風景を伝えるためのコンテンツが、我が国で起きた悲劇についての記憶を継承するアーカイブズ・シリーズの起点となった。


■ナガサキ・ヒロシマ・オキナワのアーカイブズ構築

ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクト」は、第13回文化庁メディア芸術祭で審査委員会推薦作品に選ばれた。その展示を鑑賞した長崎出身の鳥巣智行氏・大瀬良亮氏から、2010年春に一通のメールが届いた。そこには「長崎の被爆者証言を、ツバルと同様の手法で公開できないか」と書かれていた。

すぐに会合を持ち、クリエイターチームとしての首都大学東京の学生たちを含む、世代を越えたコラボレーションが始まった。長崎新聞社が編纂した被爆者証言集、長崎原爆資料館が収蔵する当時の写真、テキサス大学図書館に収蔵された1945年の長崎市街地地図などを収集、デジタル・アース上に集積していった。

速やかに作業は進み、その年の夏には「ナガサキ・アーカイブ」が公開された。公開翌日に20万ページビューのアクセスを記録し、アメリカ、スペイン、ブラジル等のメディアで特集記事が組まれるなど、大きな反響があった。


その後「ナガサキ・アーカイブ」の新聞記事を読んだ広島在住の被爆二世、石堂めぐむ氏から「ぜひ広島版を」とのメールが届き「ヒロシマ・アーカイブ」の構築がスタートした。さらに、活動の主旨に共感した沖縄出身の起業家、稲泉誠氏のプロデュースによって「沖縄平和学習アーカイブ」構築に向けた動きが始まった。

これらのアーカイブズはそれぞれ2011年夏、2012年春に一般公開された。



このように、一連の多元的デジタルアーカイブズは、できごとに深い縁を持つ人々の意思が、次々に紡がれるようにして構築されてきた。筆者は、自身の意思によってではなく、いわばクライアントの依頼を受けた建築家のようなスタンスで、各々のアーカイブズ構築に携わってきたことになる。


■世代を越えた「記憶のコミュニティ」の形成

ナガサキ、ヒロシマ、オキナワとアーカイブズ・シリーズの構築が進むにつれて、世代を越えた「記憶のコミュニティ」形成の重要さが顕らかになってきた。

デジタル技術のみではアーカイブズを構築できなかった。資料の利用については、収蔵施設の許可を受けなければならなかった。さらに被爆者、戦争体験者の証言については、新規にインタビューを行なうとともに、ウェブ公開許諾を得る必要があった。何よりも、筆者らの活動を進めるための大前提として、地元の理解を得なければならなかった。

そのために、地元の協力者を中核として、高齢の証言者と筆者ら、そして学生・生徒たちが手を取り合いながら証言と記録保存活動を進める「記憶のコミュニティ」が形成されていった。特に広島においては、広島女学院中等高等学校の矢野一郎教諭が陣頭指揮を執り、高校生たちによる証言インタビュー活動が展開された。


この「記憶のコミュニティ」においては、証言者と記録者、そして発信者が一体となった活動が展開される。過去のできごとを語り継ぐ人々を世代を越えて繋ぎながら、組織・施設の裡に閉ざされていた資料をオープンデータ化し、世界に向けて開くはたらきを担っている。筆者らが制作したデジタル・アースのコンテンツは、この「記憶のコミュニティ」の活動をあらわすインターフェイスのひとつに過ぎない。

アーカイブズ制作に関わった若者たちは、この「記憶のコミュニティ」の一員である。彼女ら・彼らは未来における新たな語り部となり、それぞれの時代のテクノロジーを用いて、それぞれのアーカイブズを構築していく。筆者はそうした未来像を思い描いている。


■東日本大震災後の活動

ヒロシマ・アーカイブの制作についての協力を仰ぐために、八王子原爆被爆者の会(八六九会)事務局長の上田紘治氏と初めて会合を持ったのは、2011年3月11日のことだった。

打ち合わせ後、筆者は京王線で都心に向かい、初台駅を通過したところで電車が停まった。隣席の男性がワンセグで「震度7」であることを教えてくれた。徒歩でトンネルを歩き、地上に出てみると大混乱が生じていた。そのまま徒歩で自宅のあるお台場まで戻る途中、街頭のテレビで大津波が押し寄せる中継映像をみた。

翌日、大学に向かう途上でTwitterのタイムラインを眺めると、原発事故に関する不安なつぶやきで満ちていた。学務で手が離せなかった筆者は「原発からの距離を示す同心円データを作成して欲しい」と、ツイートを読んでくれるであろう「誰か」に向けて依頼した。たちまち反応があり、2時間ほどで有志の手になるマップが公開され、一週間で100万ページビューを越えるアクセスがあった。


その後、首都大学東京の大学院生(当時)、高田健介君・北原和也君による「計画停電MAP」や、筆者によるHONDA・TOYOTAの通行実績情報マッシュアップサービスなど、応急的なコンテンツが次々とリリースされた。アーカイブズ・シリーズで培ったマッピング技術が、予期せず役立つことになった。



これらの例が示すように、震災後の応急コンテンツを制作するコミュニティはオンラインで形成された。現在も構築が進行している「東日本大震災アーカイブ」における「記憶のコミュニティ」も、ソーシャルメディア上のつながりが育んだものである。


これは、私たちの時代に起きた災害についての支援活動ならではの、連携のかたちである。


■震災ビッグデータの可視化

2012年秋に、GoogleとTwitter主催のもと「東日本大震災ビッグデータワークショップ」が開催された。マスメディア、ソーシャルメディアの大規模データが提供され、震災直後の状況についての分析が行なわれた。筆者は異分野の研究者とコラボレーションし、アーカイブズ・シリーズの手法を応用した2つのコンテンツを制作した


一つ目は、東京大学の早野龍五教授がリーダーを務める「Project Hayano」における、放射性ヨウ素拡散シミュレーションの可視化コンテンツである。

放射性ヨウ素は半減期が8.1日と短いため、福島第一原子力発電所事故発生後の状況がはっきりしていない。「Project Hayano」は、国立情報学研究所や海洋開発研究機構、SPEEDIなどのシミュレーションデータと、ゼンリンデータコムから提供された混雑情報を複合的に分析することで、初期被曝の実態を解き明かし、被災者を支援しようとする試みである。

筆者は、放射性ヨウ素の拡散シミュレーションデータと混雑情報を集積し、デジタルアースを使って公開した。これにより、大気中ヨウ素の推定濃度と、各地域に滞在していた推定人数との相互比較が可能になる。例えば、2011年3月15日未明には、いわき市などの人口稠密地帯に向けて、放射性ヨウ素が拡散していた可能性があることが示される。


二つ目は、東日本大震災発生後24時間のNHKニュース報道の書き起こしデータから、TV報道された場所/されなかった場所を推定し「NHK報道の空白域」を可視化するコンテンツである。ワークショップ期間中に、NHK放送文化研究所の村上圭子氏、NHK放送技術研究所の山田一郎氏らとのコラボレーションにより制作された。

NHKが報道した地点のデータを、ウェザーニューズの「減災リポート」やジオタグ付きツイート等と重層することによって、TV報道がカバーしなかった地域を、ソーシャルメディア上の災害状況報告が補完しているようすが示される。


これらのコンテンツは、開かれたビッグデータを活用し、震災後の状況の解明と将来の災害の備えに寄与するためのツールである。それと同時に、数名のチームでも、無数の人々の行動から生まれる大規模な情報を処理することが可能になった現代における、あらたなアーカイブズ構築の試みでもある。


■おわりに

これまでに述べたように、2009年にツバルからスタートしたアーカイブズ・シリーズは、ナガサキ、ヒロシマ、東日本大震災そして沖縄へと展開してきた。

任意参加のチームから自治体プロジェクトへと徐々に事業規模が拡大し、コンテンツの完成度も向上した。これまでの作品には累計70万件以上のアクセスがあり、受賞も数多く、社会から一定の評価を得ている。その反面、ビューロクラシーの弊害により、収蔵資料の選択や、内容のアップデート、公開後の社会における運用などが、意に任せなくなってきた。

震災ビッグデータの可視化コンテンツについても同じことが言える。これまで複数の機関がそれぞれ個別に放射性ヨウ素拡散シミュレーションを行ない、データは個別に利用されていた。また原発事故発生後、SPEEDIデータが一定期間伏せられていたことは良く知られている。今回の取り組みにおける各データは、まさに早野氏個人の信念のちからによって「オープンデータ化」されたものである。

アーカイブズ・シリーズの構築に際して形成された「記憶のコミュニティ」は、社会的な柵を越えて資料をオープンデータ化し、未来に向かって継承するはたらきを持つと考えられる。しかし、そのちからが存分に発揮されるための要件ははっきりしていない。これを顕らかにし、未来の社会に向けて提案していくことが、筆者の次の仕事である。