福島をいかにアーカイブするか(1)

(以下はハフィントン・ポストに投稿した記事のミラーリングです)

こんにちは、渡邉英徳です。まずお知らせです。来週6/28 19:00より東京・五反田のゲンロンカフェにて、観光学者の井出明先生と対談することになりました。対談のテーマは「悲劇を保存する――チェルノブイリと福島をいかに『アーカイブ』するか」です。ご興味のあるかた、ぜひご参加いただければ幸いです。


イベント開催まで一週間を切りました。そこでこのブログでは今後数回に分け、これまでに制作したアーカイブズ・シリーズを例に挙げつつ、対談テーマ「福島をいかにアーカイブするか」についての考えをお話していこうと思います。

「福島をいかにアーカイブするか」というテーマが与えられたとき、誰もがまずイメージするのは、福島第一原発事故と放射性物質による汚染かも知れません。Googleでキーワード「福島」を検索する際に表示される予測候補を以下に示します。3番目に「福島第一原発」という候補が表示されます。

Googleでキーワード「福島」を検索する際に表示される予測候補

私たちが制作した「東日本大震災アーカイブ」にも、下記のような爆発直後の写真(出典元)が複数掲載されています。タイムスライダー操作によって、健在だった原発の姿と、事故後の姿を比較することができるようになっています。

「東日本大震災アーカイブ」に掲載された資料写真

マスメディア報道やネット上の議論を眺めていると、震災によって福島が被った災害は「原発事故」である、そう認識されつつあるようにも思えます。しかし、福島原発近辺の被災証言を読んでいくと、そうした見方が一面的なものかも知れない、ということに気づかされます。

福島原発近辺の証言

酒井文子さん(浪江町)の証言

上記の画像は、浪江町にお住まいだった酒井文子さんの証言(朝日新聞社提供)を表示したところです。以下に証言内容を転載します。

津波で近所の人が大勢亡くなった。昼間に人と話している時はいいけど、夜は考えたくないことも考えてしまう。浪江にはもう帰れないでしょう。出かけた時に俳句や短歌を詠んで気分転換している。

酒井さんの証言は「津波で近所の人が大勢亡くなった」と切りだされています。つまり原発事故が顕在化するまでの間、東北地方の多くの街と同様に、地震と津波が福島原発近辺の地域を襲い、甚大な被害を及ぼしたのです。続く「浪江にはもう帰れないでしょう」というくだりに至って、改めて放射性物質汚染のことに言及されていることが分かります。

この証言から、酒井さんの震災の記憶が「津波」と「原発事故」によってかたちづくられていることが読み取れます。現地の方々にとって「東日本大震災」は、必ずしも原発事故だけを指しているわけではないのかも知れません。

また、福島第二原発近くにおいて、震災発生当日の深夜につぶやかれたツイート例を以下に示します。

福島第二原発付近のツイート例

以下にツイート内容を転載します。

自宅はどのくらい浸水したんだろう?冠水かな? @楢葉町中央公民館に避難中

先ほど紹介した酒井さんの証言と同じく、この地域に住む人々の当初の関心事は、津波による被害だったということが分かります。原発事故はそのあとに起きたのです。

さらに、浪江町で撮影された写真(出典元)からは、津波による破壊の凄まじさが伝わってきます。警戒区域に指定されていた浪江町では瓦礫の片付けも進行しておらず、震災から2年以上経過した現在においても、あまり変わらない状況ではないかと推測されます。

浪江町の被災写真

ここまでの例が示しているのは「福島」×「原発事故」という強い印象に覆い隠され、ともすれば見過ごされがちな、福島における地震・津波による被害の実態です。一面的な報道に埋もれがちな記録や記憶が、デジタル地図にマッピングされたことで、表層に浮かび上がってきました。

このように、多元的な資料を収集してデジタル地図に載せ、フラットに提示する私たちの手法は「福島をいかにアーカイブするか」という問いに対する、ひとつの応えになり得ると考えています。

今回の記事では「東日本大震災アーカイブ」を例として取り上げ、さまざまな資料をアーカイブし、デジタル地球儀上にマッピングすることによって、隠れた文脈が顕れてきた例を示しました。次回は、東京大学の早野龍五教授と共同で制作した「放射性ヨウ素拡散シミュレーションのマッシュアップ」についてお話します。